高倉院厳島御幸記

『高倉院厳島御幸記』ついて

[背景] 治承4年(1180)2月に安徳天皇に譲位した高倉上皇が、3月19日に京を出立し、安芸国一宮の厳島神社に参詣し、4月9日に帰京するまでの旅の様子を記した紀行文である。前年、平清盛がクーデターを起こし、後白河法皇を幽閉。外孫の安徳を即位させ、娘婿の高倉上皇による院政を名目に実権を掌握した。当時、退位後の上皇の最初の寺社参詣は、賀茂神社や石清水八幡宮、春日社などが一般的であった。そのため、人々の不満は大きく、比叡山や三井寺の大衆が上皇の身柄を奪おうとしているという風聞が流れる中での御幸であった。ただし、高倉上皇にとっては、平家の尊崇する厳島に参拝することで、父の後白河に怨みを抱く清盛の心を和らげようという配慮があったといわれる。このような緊迫した政治状況や人間模様は、本書の随所に見え隠れしており、当時の宮廷の雰囲気や貴族の心理を知るための史料としても価値が高い。

[作者] 筆者は、新院別当として旅に随行した源通親である。公家源氏最高の家格を誇る村上源氏で、治承4年に平徳子の中宮権亮(中宮職の次官)に任じられており、平家との関係は良好であったとみられる。平時子の異母弟能円が平家一門とともに都落ちした後、能円の前妻で後鳥羽上皇の乳母であった藤原範子と結婚。能円と範子の娘在子を養女にして後鳥羽に入内させた。その後、摂政九条兼実と外祖父の地位を争い、「建久七年の政変」(1196年)で兼実を失脚に追い込むと、在子が生んだ土御門天皇を即位させ、朝廷の実権を掌握した。源頼朝をも煙に巻く策略家であったが、文人としても高い教養を備えていたことは本書にもうかがえる。内大臣右大将を極官として、建仁2年(1202)に54歳で亡くなった。

[凡例] 平家一門・縁戚はで、それほどの関係でもない人物はで示した。呼び方は原文どおりとし、適宜カッコで姓や名を補った。また、小見出しは読みやすさを考慮して訳者(管理人)が適宜付したもので原文にはない。



厳島御幸の決定と準備

 頼りなく年が変わって治承4年となった。春の初めに素晴らしいことが多く、書き尽くすのも難しい。(高倉院が)退位され、厳島への御幸があるはずだとささやかれているのも、夢の浮橋を渡るような気持がするところに、如月の20日(正確には2月21日)、東宮(安徳天皇)に譲位されて、内侍所、神璽、宝剣をお遷しする夜は、数日前からお思いになっていたことではあるものの、心細い御気色も見えたようであった。廷臣や女房たちも果てしなく寂しさが尽きることはなかったが、空模様もかきくもり、残雪がにまだらになるほど(雨が)打ち注いで、日暮れになる頃、公卿たちが陣の座に集まって、当然すべきことを(譲国の節会や固関、剣璽渡御など)、先例に従って行われたところに、宣旨を受け給わって陣の座に出て、譲位のことを、左大臣(藤原経宗)がおっしゃるのを聞いて、情けのある人は袖を濡らし、何とはなく思い続けることが様子に表われている。その中に、特に誠意のある人(源通親)は、このように思いを歌に詠んだ。

かきくらし降る春雨や白雲のおるゝなごりを空にをしめる
(あたり一面が暗くなって降る春雨は、白雲が下りる名残を惜しむかのように、主上の退位を空も惜しんでいるのだろうか)

 ちょうど良い時刻になったということで、何となく人々が集まって騒ぎ始めた。弁内侍(高階業子)が御佩刀(はかし。宝剣)を手に取り歩み出る。清涼殿の西表(里内裏である閑院殿の東対屋)で(藤原)泰通の中将がこれを受け取る。備中の内侍(前和泉守源季長娘)が璽(しるし)の箱(神璽の入った箱)を取り出し、(藤原)隆房中将が受け取って、近衛府の官人が付き添って出る。長い間、(高倉院の)側に仕え、大切に扱ってきた御佩刀、璽の箱に、手を触れるのも今夜までと思いめぐらしているだろう内侍の心の内が思いやられて気の毒である。儲の君(安徳天皇)に譲位して藐姑射(はこや)の山(院御所)の中も閑かになったなど、お思いになるであろうことだけでも、寂しさが募るというのに、まして心ならず、いたましいことになるであろう、先々の有様が自然と思いやられる。
 譲位の儀式が終わり、明け方になると、人々が閑院殿に帰ってまいり、何となく灯火の光もかすかに、人の出入りもまれになり、涙が止まらない心地がしているところ、院号が仰せられて、院御所への昇殿を許される者をはじめ、あれこれが定められる。時刻を知らせる鶏人の声も止み、滝口の武士が宿直につく際の名乗りの声も絶えて、門の近くで人々が牛車の乗り降りをしていたのも、嘘のように思われた。その頃、閑院殿の池のほとりの桜が咲き初めているのを見て、次のように詠んだ。

九重のにほひなりせばさくらばな春知りそむるかひやあらまし
(閑院殿が内裏だった頃に咲き匂うのだったら、桜の花も春に初めて咲く甲斐があるだろうに)

 かくして、厳島御幸を行うこととなり、3月3日、神宝(神社に奉納する神服・幣・鏡などの宝物)を始めるべき日についての沙汰があった。譲位されてからは、賀茂神社や石清水八幡宮などへこそ、最初に御幸されるべきであるのに、思いもよらない海の果てへ、浪を押し分けて、どのような御幸なのかと歎かわしく思うけれども、(平清盛の)荒々しい浪のような気色がおさまらないので、口に出して言う人もいない。
 4日が吉日ということで、譲位後初めての御幸を行うべきであると定められる。当日の明け方から雨が降って、夕方に晴れた。尊号の儀式(新帝から上皇に尊号を送り、先帝が謙って辞退する儀礼)をされて、(藤原)実国大納言が(尊号を辞退する奉書を持った)院の使者として参内する。
 夜になって、土御門高倉の(藤原)邦綱の大納言の家に御幸された。殿(摂政藤原基通)から唐の御車、乗り換え用の馬など、何やかやと殿におさせになる。御車に従う行列の装束も、とても素晴らしい。御随身の者たちはさまざまに威儀をつくろい、御前払いを勤める。公卿・殿上人は残る者なくお仕え申し上げる。これに伴い、中宮(平徳子)が行啓される。今夜、厳島の神宝が始められる。御供の人が定められる。煩いなく、質素に、忍ぶようにとの仰せがある。

西八条殿への御幸と門出

 宮廷内の鶯が静かな声でさえずり、四方の山辺も霞が一面に立ちこもり、春深い景色にも、旅の心細さに、何とはなく世の中のさまざまが無意味に思われ、別れを惜しむ同輩たちの声も多く聞こえる。長い春の日も空しく暮れて、17日に都を出立される予定であるところ、比叡山の大衆があれこれと文句を言うのが聞こえて、穏やかではなかったので、今日は西八条殿へ、御門出(実際の旅立ちの前に吉報に移る仮の門出か)をしなければならないということで、八条大宮の二位殿(平時子)のもとへ御幸された。何となく浪の浮巣(水上に浮いているように見える「鳰の浮巣」にかけている)のようにゆらゆらと歩いて、夢か、夢ではないかということばかり(思いやられる)。公私ともに恋い慕い合う女との名残も、どんなに惜しいだろうかと、「予期しない別れ(死別)もあるのでは」など、ひたむきな様子で言っていた女の辛そうな様子に、内裏へお暇を申し上げようと参内した際に立ち寄って、無常の世に、生き残ったり先に死んだりする例や、旅の空の寂しさなどを何度も話し合っているうちに、おぼろげな月影がうっすらと差し込んで、窓の外の梅がすっかり散ってしまったのに、香りだけ梢に残っているような趣で、ふとした機会にそれとなく伝える話も、言い尽くすことが難しい。ほどなく、夜もおいおい更けてきましたと、諫める供人の声に促されて出ていくこととなり、歌を書きつける。

目のまへにとまらぬものは今はとて立ち出づる程の涙なりけり
(目の前に止めようにも止まらないものは、いよいよお別れだと言って出立しようとする時に流れる涙でしたよ)

思ひやれ都の空をながめても八重の潮路の旅のあはれさ
(思いやってほしい、都の空を見つめて、はるかな海路を分けてゆく私の旅の哀れさを)

若一神社
かつて西八条殿があった場所に鎮座する若一神社

 西八条殿へ「御幸の支度をしてください」と申し上げる御使が何度も参上するところを、「慣れない旅の空が気がかりです」などと(高倉院が二位殿に)申されます。(藤原)隆季大納言が参上して、「御幸の準備ができたので参りましょう」と催促申し上げるのも身につまされるところ、「御供をすることになっている人は、すべて船に参りなさい」ということで、草津(京都市伏見区)という所に平張(天井に平らに幕を張った仮屋)を設置し、御供の人々が参事して用意している。隋の煬帝が錦の纜(ともづな)でつながせたという船とは比べられないけれども、しっかりと趣向が凝らされている。数々の御船は峰の嵐に吹かれて、色とりどりの木の葉が波打ち際に散り敷かれたように、海上に散らばっている。御供の女房達は、ほとんどが、夏も深まった梢になく蝉の声のように鳴き声を上げて御船に参る。近づいて指図して乗せても、「これはまあ、どのような旅のお遊びなのでしょう」と、不吉な言葉を慎みもせず歎き悲しむのを、「御門出に縁起でもない」などと諫めるものの、自分の心中も動揺している。
 朝日が差し始める頃、御幸が始まる。殿上人は10余人、公卿は7、8人ばかりが、日常の略服である直衣でおいでになる。御車をさし寄せて、上皇を御船にお乗せになる。閑院の池の舟にお乗せになる習慣からだろうか、いつか、このような道中をご覧になったように思われる(原文=いつかはかゝる道にも御覧ぜむとぞ覚ゆる)。
 帥大納言(藤原)隆季藤大納言実国五条大納言邦綱土御門宰相中将通親、殿上人では、中将隆房弁(藤原)兼光が、御幸の差配をお受けし執り行う。木工頭宗のり(平棟範)、この他は前右大将(平)宗盛頭亮(平)重衡讃岐の中将(平)時実などがお仕えする。女房は4、5人ほど、どうしても(高倉院から)離れがたい人々がお仕えしている。随行の人は多くないとお思いになるが、そうはいっても船の数は非常に多く、ほどなく水の浜(京都市伏見区淀見豆町)にお着きになる。(高倉院は)御船にお乗りになったままで、浜の上に錦の幄(中央に柱を立てて棟を作り、幕を張った仮屋)を立てて、薦のむしろを敷き、御幣を寄せて立てる。御贖物(あがもの。罪や穢れを贖うため祓の際に供える代物)を隆房中将が手にとって、御船に奉る。宗教(平棟範)が供物を取り次ぐ役奏としてお仕え申し上げる。掃部頭(安倍)季弘が御禊(上皇が神事の前に行う潔斎)にお仕えする。

川尻で高麗人が院に伺候する

 こうして御船は出航し、東からの春風を受けて西へと下って行かれる。申の刻(午後4時前後)に川尻の寺江(兵庫県尼崎市杭瀬寺島付近)という所に到着なさる。(藤原)邦綱の大納言がつくり、おもてなしに心を尽くした御所へ、(高倉院は)御船ごと入り、(寝殿造の池にのぞむ)釣殿からお降りになられる。襖の数々に唐絵や大和絵などが描かれている。厩には葦毛の馬(白い毛に黒や他色を交えた馬)を2頭たて、素晴らしい鞍をかけている。部屋の装飾(または装束)は数えきれないほどである。公卿・殿上人の居室も、すべて同じような装いである。(清盛が)福原(神戸市兵庫区・中央区)から「今日は吉日ということで、船にお乗りください」といって唐船をさし向けて献上する。(船の形は)本当にものすごく、絵に描かれたとおりである。唐人がつきそって参上した。「高麗人(渡来人)には軽々しく対面されてはならない」という、どなたか(宇多院)の御時に仰せがあったとかいうのに、(唐人たちが)むやみに近くまで伺候するのが、お気の毒で見ていられない。御船にお乗りになって、難波江の内をめぐって、お上りになった。
 夕方、雨が静かにそぼ降り、旅の宿にあって早くも都が恋しく、心細いありさまである。「このように雨が降ったなら、明日はここに泊まるべきか。あるいは陸路で福原に着くのがよいか。船で行くべきか」など、(高倉院が)右大将(宗盛)にご相談なさる。

生田の森
『枕草子』にも紹介された生田の森

 明朝、雨はなおもやむことなかったが、「日の吉凶の良し悪しは決まっているので、お泊りになるべきではありません」ということで出立された。「雨空は風が定まらない」ということで、陸路により御幸される。西の宮(西宮戎神社、兵庫県西宮市)で御幣を奉られ、庭で礼拝される。(平)棟範が使者として参った。(高倉院)は御輿で出て行かれ、人々はみな馬でお仕え申し上げる。歌枕として有名な鳴尾の松(西宮市鳴尾町)を過ぎると、(「浦づたふ磯の苫屋の梶枕 聞きもならはぬ波の音かな」(千載和歌集、藤原俊成)の歌のように)聞きなれない浪の音も、磯部の近くを進むうちに、いつのまにか慣れてしまったような心地がしつつ、どこともはっきりしない山川を何となく通り過ぎ、はるばる遠くまで進んでいった。西の宮の前で経文を読誦し手向けて(法施)、無事に都へ帰れるようにお祈り申し上げる。未の刻(午後2時前後)は都賀の山坂(神戸市灘区)に到着された。あたり一帯の海を池と思って見ると、(「三千世界眼前尽 十二因縁心裏空(三千世界は目の前に尽きぬ、十二因縁は心の裏に空し)」(和漢朗詠集、都良香)の詩のように、)どうして、三千世界が尽きることががあろうかと見えたことであった(何かは三千世界も残らんと見へたり)。ここで昼のお食事をなさって、まもなく出立された。

福原で清盛の歓待を受ける

 生田の森などをうち過ぎて、申の下り(午後5時頃)に福原にお着きになられた。入道大きおほいまうち君(入道太政大臣、清盛)が心を尽くしたおもてなしの支度のみごとさは、心や言葉では表せない。天下を思いのままにしている権勢を背景とした整えは、(都にいる人々にも)想像できるだろう。本当に(神仙が住むという)66の洞天に入ったような心地がする。木立や庭のありさまは、絵に描きとめたいほどだ。噂に聞いていたよりも勝っていて、例がないほどに見える。

雪見御所跡の碑
福原にあった清盛の別邸の一つ雪見御所跡の碑

 (高倉院が)到着された後、すぐに厳島の内侍(厳島神社の巫女)が参上して、みなで管絃の遊びをする。御所の南面に錦の絹屋(絹幕を四方と上部に張りめぐらした仮小屋)を設けて、雅楽の「狛桙」で使う五色の船棹を立て渡してある。内侍は八人である。みな雅楽を演奏するための唐装束で着飾っている。花蔓(花に糸を通して作った蔓の髪飾り)の色をはじめとして、天女が舞い降りたような姿とは、まさにこのようなものだろうと見える。雅楽の「万歳楽」など、さまざまな曲を舞う。(白居易の詩「胡旋女」で聖域の胡旋舞を演じる女たちのように)内侍たちは左に右に身体を回転させて疲れることを知らないかのようである。普段から舞っていて板についている宮廷の楽所の舞人よりも優って見える。梨園(唐の玄宗皇帝が設けた宮中の舞人の教習所)の音楽の音にも限度があるので、これにはどうしていつまでも見ていられようかと思われる。舞が終わってしまうと、(高倉院は内侍たちを)殿上に招き寄せ、御前で神楽を歌わせられた。近くに伺候する上達部、殿上人は皆でもてはやした。
 山の姿が暗くなり日も暮れたので、庭に篝火を灯した。中国の楚の県公である魯陽公が敵と戦った際、沈もうとする太陽を招き返したという桙も、このようであったろうかと思われる。夜もふけてしまったので、(高倉院は)お入りになる。何の感興も残らないと、心の中でお思いにいなっている。せめて一般の主上のごとくに遇し申し上げたならば、中国古代の尭帝・舜帝の聖代にも劣らせなさらないと見える。あの天宝(玄宗治世の年号)の末に、世の中が変わるだろうかと、当時の人は考え、この舞を学んだ。太真(楊貴妃)に対して、辺境にいた安禄山は心のうちに思うところがあったのだろう(※原文「大真という物、ほかにはあり、禄山という者、うちに思ふ所ありけん」)。(高倉院の御心は)玄宗の心に変わっているが、どうしてと申す人もおらず、まことに心配するかいもない(※原文「いかにと申す人もなし。げにぞ思ふかいひなき)。

福原から須磨、明石へ

 二十一日、夜の明けないうちに出発される。都を出立されてから、上達部も殿上人もみな浄衣を着ている。有名な和田の岬(神戸市兵庫区)、須磨の浦(同須磨区)などという所々を、浦から浦を伝い、はるばると浪風の激しい磯辺をこぎゆく船は、帆を勢いよく張りめぐらし、波の上を行き交っている。福原の入道(清盛)は唐船で海から参上される。

須磨海岸
光源氏が逼塞した須磨の浦

 播磨国に入ったのだろうか、印南野(兵庫県高砂市・明石市)など歌枕に聞こえた場所ということで、しみじみと趣深く感じられる。(高倉院は)御輿の近くに人々を控えさせ、所々でお尋ねになる。座主(明雲か)が八瀬童子(山城国八瀬の里人。大礼や行幸などの際、駕輿丁を勤めた)を召してお仕え申し上げる。播磨国山田(神戸市垂水区西舞子)というところに昼のお食事が用意されている。心を込めた丁寧なもてなしである。庭には黒白の石で市松模様に石畳を敷き、(周囲には)松を飾り、さまざまな飾りをかけ並べている。お食事は海の珍味を取りそろえ、山から拾い集めた木の実が整えられている。しばらくして(高倉院が)おいでになる。風は少し荒く立ち、波の音も機嫌が悪く聞こえる。海に浮かんでいる船々も騒がしい。明石の浦などを通り過ぎるについけても、何某(光源氏か)が昔、涙に袖を濡らしたことも思い出される。
 午後4時頃、高砂の泊(兵庫県高砂市)に到着される。四方の船は碇を下ろしながら浦々に着岸した。御座船の喫水(船底の水に入った部分)が深く、湊の奥まで入れないため、端舟(はしけ、小舟)3艘でこぎ近づき、御輿をかついで固定し、上達部だけで御座船にお乗せ申し上げた。聞きなれない浪の音が、いつのまにか大きく騒がしく、浦人の声も耳についた。これより国々から召された人夫たちが返される。彼らに託して、都にいる人(別れを惜しんだ内裏女房か)に便りをした。

思ひやれ心もすまに寝覚めして あかしかねたる夜ゝのうらみを
(思いやってほしい。心も満たされず須磨の浦に寝覚めして、夜ごと明しかねた恨めしさを)

大蔵海岸公園
淡路島の対岸に位置する明石の大蔵海岸公園

 どこの集落であろうか、鶏の鳴くのがかすかに聞こえて、たいそう趣がある。周囲の浦々に霞がかかって、並々ではない春の夜明けに、旅の袖の上に、何というわけもなく涙を落した。「潮が満ちた。ご出発していただききましょう」といって、どの船も、先を争うように出航の準備をしている。(高倉院が通親に)「そばに控えよ」と、私を頼りにとお思いなされているのは、大変恐れ多いことである。(清盛の)唐船が鼓を三度打つ。すべての船がこの音を合図に港を出る。船が出港し終わってから、院の御座船が出立される。水夫や舵取りは格別に着飾っている。櫨(赤みを帯びた黄色)こがしの藍摺(布地に山藍で模様を摺り出したもの)に黄色い衣を複数重ねて、二十人も着ている。波も静かな朝の海に、水夫たちの「えいや、えいや」というかけ声が、新鮮に聞こえる。

備前国児島を経ていよいよ安芸へ

 正午を過ぎて、太陽が西に傾き始めた頃、室の泊(兵庫県たつの市)にご到着なされた。周りを山が取り囲んでおり、その中で池のように見える。船の多くも到着した。その向かいには家島(兵庫県姫路市、播磨の歌枕)という泊がある。九州から上って来る名高い船々は、風にまかせてあそこに着くという(原文=筑紫へと聞ゆる舟どもは、風にしたがひてあれには着くよし申〈家島を詠んだ万葉集の歌にかけているのか〉)。室の泊に御所を造った。御座船を寄せてお降りになった。お湯に入られて、この泊の遊女たちが、古い塚の狐が夕暮れに化けたように(白氏文集・古狐塚の「古冢狐、妖且老化爲婦人顏色好」「日欲暮時人靜處」とかけた叙述)、我先にと御所の近くへ寄ってくるが、相手になる人もいないので帰っていった。この山の上に賀茂の御神をお祭り申し上げている。(高倉院が)御幣をお差し上げになられた。また、(源通親も)私的に参って奉幣した。年老いた神殿守(かんとのもり、神殿の守衛)がいた。当社はこの泊が賀茂明神の御厨(所領)になった当時、勧請し申し上げたもので霊験あらたかである。社が五、六も大きく並び造られていて、鼓を打って、絶えまなく巫女たちが集まって神楽を奏している。これは旅の道のりで雨風の煩いがないようにとのお祈りということである。「雲分けむ」の御誓(信仰する者の願い事は必ずかなえようという賀茂明神の誓い。賀茂の神詠である「我頼む人いたづらになしはてば 又雲分けて昇るばかりぞ」〈自分を信仰して頼みとする人の願いを空しくしてしまったならば、また雲を分けて昇天するだけだ〉からの引用である)に、思いがけず浦のほとりで出会うことができて心強く感じられる。

淡路島
大蔵海岸公園から望む淡路島

 二十三日は空も晴れ、風も静まって、有明の月(夜明けの後も空に残っている月)が淡路島に落ちかかって、このうえなく趣深いので、

淡路島かたぶく月をながめても よにありあけの思ひ出にせん
(淡路島の方角に傾く有明の月をじっと見つめて、この世にあった思い出にしよう)

 備前国の児島(岡山県倉敷市)の泊に到着された。御所を造り、調度品を新しく整えた。上達部・殿上人たちの宿所も造り並べた。潮が少し引いて、御座船が着岸する。汀が遠いので御輿で陸に上がられる。御所の東の御壺(建物や垣などに囲まれた中庭)に楽屋(控室)を作って、入道(清盛)が厳島内侍たちを 引き連れて参上する。(内侍たちは)多種多様な直垂(男性の常服)に錦を裁ち入れたのを着て、花で飾った8人が、集まって田楽を奏する。女性の芸能とも見えない。(内侍たちは)普通のままでいるだけでも当然なのに(原文=ただあらんだにあるべきに)、辺鄙な海のほとりに目を見はるものがあるものだと感心させられる。田楽が終わったので、備前国の呪師(ずし、寺院の法会で芸能を演ずる者)といって、風情ある者たちが参りて呪師走り(呪師の演ずる芸能。華麗な衣装で俊敏に走ることからこう呼ばれた)を演じ申し上げる。日が暮れたので、みな退出した。(高倉院は)浦々をご覧なされて、沈む夕日は空を紅に染めて、向かいにある島に隠れげに見えている山の木立が、絵に描いたような心地がするところに、(高倉院は)お目にとまる所々についてお尋ねなされる。「この向かいにある山の向こうに(岡山市中区湯迫か)、入道大殿(松殿基房)がおいでになります」と申し上げると、(高倉院は)お聞きになって顔色がお変りになられたので、臣下の人々のことまでもお気にかけていらっしゃるお心の中が見えた(基房は前年11月、清盛のクーデターによって関白を罷免され備前に配流されていたので、それを思い出し悲しげな表情になったのである)。かりそめと思う旅の泊りでさえも哀愁が感じられるのに、ましてや武士の館に入っているであろう様子は、どれほど不安で悲しいだろうかと思われた。「邦綱の大納言がいらっしゃいました」などと申しあげても、いっこうにお元気になられない。この国に八幡の若宮(倉敷市の本荘八幡宮か)がおはしますとお聞きになって、(高倉院は)御幣を奉り申し上げられた。
 二十四日の寅の刻(午前3~5時頃)に鼓を打って、備中国せみ(倉敷市の沙美海岸か)というところにお着きになる。都から遠ざかり地方へ奥深く入ってゆくにつれて、山の木立や石がそそり立つさまも険しく見える。
 二十五日の申の刻(午後3~5時頃)に、安芸国馬島(愛媛県今治市)というところで、海水で髪を洗い身を清める。宮島(厳島)が近くなったなあと、清浄な心を引き起こす。
 二十六日、空の様子は明るく穏やかで、神も(高倉院の)敬神の御志を受け入れて喜んでいらっしゃるような、恩恵の兆しが見える。日が輝き始めるうちにご出立される。

宮島に上陸し厳島神社に参拝

 午の刻(午前11~午後13時頃)に宮島に到着なされた。神宝の舟をお探しになられる。あらかじめ準備していることを申し上げる。陰陽師の舟を少しの間、お待ちになる。空の景色、その場所の様子、目も心も及ばないほど美しい。唐の怨寺(中国浙江省にある水心寺の誤り。風光明媚なことで知られ藤原公任や大江匡房らも詠じている)もこのようであろうと見え、神仙の洞に至ったような心地がする。宮島の有の浦(厳島神社の東の海岸)に神宝を整え立てて礼拝される。社司(神職)、狩衣などを着ている者が神宝をもって参上する。大幣(おおぬさ、祓の時に使う大串に付けた幣帛)に祓い清め申して差し上げる。時実の中将が取り次いで献上する。

有の浦
かつて船着き場だった有の浦

 潮が引いて御所に御座船が入らないので、(高倉院は)端舟(小舟)でお降りになられる。上達部は御座船に控えて、宮島の南に三間四面の御所を造り、障子に海の絵を描く。海の上に、波打ち際まで続く回廊を造り、潮が満ちたら御座船をさし寄せようと支度をしている。
 (高倉院は)御入浴などなさって、絹の御浄衣をお召しになっている。御所の東の庭に白木の机(祭祀用の八足の机)を立てて、薦を敷いて、白栲(しろたえ、楮などの皮の繊維で作った白布)の幣を寄せて立てる。その東に唐櫃のふたを開けて、金の幣を置く。その西に藁座(藁の縄を渦上に巻いた敷物)を敷いて、陰陽師の座とする。神馬(奉納する馬)を一頭立たせる。左衛門尉(清原)信定(平)時宗(時忠の子の侍従時宗か)がこれをひく。北面の武士などもまだ置かれていないので、御供には上達部の侍をお召しになる。隆房の中将が御前に控える。宮内少輔棟範が役送(上皇の御膳を給仕人に取り次ぐ役)を務める。御禊が終わったので、召使(身分の低い官人)が(高倉院の)履物をもって、回廊の北の浜をめぐって先に参上する。(高倉院が)回廊を通ってお参りなされる。帝位にあった時は、一、二町を歩くだけでも筵道(えんどう、裾が汚れるのを防ぐために道に敷く筵)をお使いになられたので、お履き慣れていない御履ではどれほど歩きづらいだろうと思われる。上達部、殿上人が御供をする。

有の浦
天忍穂耳命など五神を祀る客神社

 客人の宮にまずお参りになる。金銀の幣を二度捧げ、白栲の幣を神官たちがとって宝前に供えて並べ立てる。拝殿の中ほどに高麗の半畳(白地の綾に雲形・菊花などの模様を黒く織り出した高麗縁で囲われた半畳の畳)を一帖、拝礼の座とする。金銀の幣を兼光の弁が伝え取って隆季の大納言に渡す。大納言がこれを伝え取って(神前に)差し上げる。拝礼を終えてお返しになる。祝詞の師(願主に代わって祝詞を奏する神官)に賜る御琴一つ、御琵琶一つ、御拍子(笏の形をした打楽器)、横笛(竜笛)を受け取って、宝前に並べ置く。内侍たちは色とりどりに装って、金糸・銀糸で仕立てた装束の刺繍は、目がくらみ心も追いつかないほどである。
 神楽の奉納が終わったので、大宮(本社)にお参りされる。御奉幣が終わると御経供養(書写した経文を仏前に供え、功徳を願って法会を営むこと)をなさる。金泥(金粉を膠水に混ぜたもの)の法華経一部、寿量品、寿命経は、(高倉院)手ずからお書きになったものである。御導師(法会を執行する僧)の公顕僧正が参上して願文を読み上げる。宮中を出て、はるかに遠い海路を分けいって、お参りになったお心のほどなど、聞く人も感涙に濡れた袖を絞りきれないほど巧みに申し上げられる。かづけ物(褒美の品)を一種類ずつ包んで人々にお与えになった。勧賞(功労を賞して官位や物品を与えること)を仰せになる。僧の一人を法眼にならせられた。神主景弘(佐伯景弘)は位階をお上げになられた。宮島の座主(厳島神社の別当寺である水精寺〈現在の大聖院〉の住持か)を阿闍梨になさせる。安芸の守(菅原)在経は加階一級をあげさせられ、院の殿上を許された。隆季大納言はこのことを兼光におっしゃった。御神楽を奏した厳島の内侍八人に、衣一そろいと綿などを与えられた。日が暮れたので、(高倉院は)御所にお帰りになられた。上達部・殿上人の宿直所は心を込めて作り構えている。内侍たちが整えた屋形で、おのおのが過ごした。月の眺めの良い頃であったなら、どれほど趣があったことだろう。空に月がないことが残念に思われる。


続く・・・


参考文献

大曾根章介・久保田淳校注『高倉院厳島御幸記』(岩波書店)/梶原正昭・山下宏明校注『平家物語(二)』(岩波文庫)/角田文衛著『平家後抄(上)』(講談社学術文庫)/和田英松著・所功校訂『官職要解』(講談社学術文庫)